永倉新八という男―新選組二番隊隊長、その剣と生き様を史実と『ちるらん』から読み解く

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第一章 新選組二番隊隊長、永倉新八という男

天保10年(1839年)、永倉新八は松前藩士・長倉勘次の次男として、江戸の松前藩邸で生まれました。

もともとの姓は「長倉」。

幼いころから剣術を学んだ永倉は、やがて自由な剣術修行を求めるようになり、19歳で松前藩を脱藩します。その後、「長倉」から「永倉」へ姓を改め、さらに剣術修行を重ねていきました。

ここではまだ詳しく触れませんが、永倉が少年時代からどのような剣術を学び、どれほどの修行を積んだのかについては、第二章でじっくり見ていきます。

その後も剣術修行を続ける中で近藤勇と知り合い、近藤の道場「試衛館」に食客として出入りするようになります。

やがて近藤勇や土方歳三らとともに浪士組へ参加して京都へ向かい、壬生浪士組を経て新選組へ。

永倉はそこで副長助勤、二番隊隊長、撃剣師範などを務め、新選組の中核を担う一人になっていきました。

では、永倉新八とは、いったいどんな性格の男だったのでしょうか。

後世の作品では、「豪快」「熱血」「義理堅い」といった言葉で描かれることがあります。

しかし、歴史上の人物の性格を、現代の言葉だけで決めつけることはできません。

そこで永倉が実際に残した行動を見てみると、自分の信念を持ちながらも、かつてともに生きた仲間を長く大切にした人物だったことが見えてきます。

新選組時代、永倉は決して近藤勇の考えすべてに黙って従い続けた人物ではありませんでした。

やがて近藤とは袂を分かち、別々の道を歩むことになります。

それでも、永倉にとって「別れ」は、かつての同志を忘れることではなかったのでしょう。

明治9年(1876年)、永倉は東京・板橋に近藤勇や土方歳三をはじめとする新選組隊士を弔う墓碑の建立に尽力しました。

さらに明治24年(1891年)の書簡からは、近藤・土方の二十三回忌を行い、墓碑の修理に必要な資金を集め、京都に残る同志たちの墓や近藤の首級の埋葬地を探そうとしていたことまで確認できます。

生前、意見が食い違うことがあった。
それでも、死後まで同志を忘れなかった。

単純に「仲が良かった」という言葉だけでは表せないところに、永倉新八という人間の魅力があるように思います。

そして、もう一つ。

晩年の永倉の人柄を考えるうえで、非常に興味深い資料が北海道に残されています。

明治44年(1911年)、永倉は新選組時代から戊辰戦争期にかけて自らが負った傷について、「七ヶ所手負場所顕ス」という記録を残しました。

北海道博物館に伝わる杉村家資料の一つです。

ここで注目したいのは、七つの傷そのものではありません。

永倉はこの記録を、4人の孫たちが成長したときに見せることを意図して残していました。

幕末の激動を生き抜いた男が、年老いてから、自分がどこで何を経験したのかを次の世代へ残そうとする。

それは武勇を誇るためだけだったのか。

それとも、自分が生きた時代を家族へ伝えたかったのか。

本人の胸の内まで断定することはできません。

けれど、墓碑を建立して亡き同志たちを弔い、自らの記憶を孫たちへ残そうとした――その行動からは、剣の強さだけでは語り切れない永倉新八の姿が見えてきます。

剣士としての強さ、近藤勇や土方歳三たちとの関係、そして現代の作品『ちるらん』で描かれる熱い永倉新八の姿。

ここまで触れてきた一つひとつについては、この先の章で史実と作品を照らし合わせながら、さらに詳しく見ていきます。

まずは、その永倉新八の生涯を貫いた「剣」から見ていきましょう。

では、次の章で永倉新八の剣術の実力と魅力に迫っていきましょう。

第二章 永倉新八の剣術の実力と魅力

第一章で見てきた永倉新八という人物。

その生涯を語るうえで、決して外すことのできないものがあります。

それが、剣術です。

永倉が剣の道へ足を踏み入れたのは、まだ幼いころでした。

弘化3年(1846年)、7歳の永倉は岡田利章が開いた神道無念流の道場「撃剣館」に入門します。

入門から4年後に岡田利章が亡くなると、その後は岡田助右衛門に師事。

そして15歳で「切紙」、安政3年(1856年)、18歳で「本目録」を授けられました。

現代では聞き慣れない「切紙」や「本目録」という言葉ですが、いずれも剣術の修行段階を示すものです。

月形町の資料では、切紙を「初等の免許」、本目録を「修了証」と説明しています。

つまり永倉は、突然、新選組で強くなった剣士ではありません。

少年時代から十年以上にわたって剣を学び続け、新選組に加わる以前から本格的な修行を積んでいた剣士だったのです。

神道無念流だけでは終わらなかった剣術修行

18歳で本目録を得た永倉ですが、それで剣術修行を終えたわけではありませんでした。

19歳になると、さらに自由な剣術修行を求めて松前藩を脱藩。

本所亀沢町(現在の東京都墨田区亀沢周辺)にあった百合元昇三の道場で学んだのち、市川宇八朗とともに武者修行の旅へ出ます。

さらに江戸へ戻った永倉は、心形刀流の坪内主馬に見込まれ、坪内道場の師範代を務めるまでになりました。

神道無念流で修行を重ね、本目録を得る。

そこで満足せず、脱藩してまで剣を求め、別の道場でも腕を磨く。

そして、ついには人に剣を教える立場にまでなる。

永倉新八の剣術を考えるとき、「新選組二番隊隊長」という肩書だけを見るのではなく、その前に積み重ねられた長い修行歴を見る必要があります。

そして坪内道場で師範代を務めていたころ、永倉は近藤勇と知り合います。

近藤の試衛館に食客として出入りするようになり、やがて近藤や土方歳三らとともに京都へ向かうことになります。

少年時代から磨き続けてきた永倉の剣は、ここから幕末の動乱の中へ入っていきます。

新選組で振るった永倉新八の剣

京都で壬生浪士組、そして新選組へと加わった永倉は、副長助勤、二番隊隊長を務めるだけでなく、撃剣師範にも就いています。

新選組という実戦を経験する集団の中で、隊士たちに剣を教える立場でもあったのです。

そして永倉の名を語るうえで欠かせない戦いの一つが、元治元年(1864年)の池田屋事件です。

月形町の資料にも、この戦いで永倉が活躍したことが記されています。

しかし、永倉の戦歴を考えるときに重要なのは、「何人を斬った」「誰より強かった」といった後世の伝説だけではありません。

第一章でも触れた、晩年の永倉自身が残した「七ヶ所手負場所顕ス」があります。

そこには新選組時代に負った、七か所の刀傷や鉄砲傷について記されています。

これは後世の小説やドラマによって作られた設定ではなく、北海道博物館が所蔵する杉村家資料として現在まで残されているものです。

つまり永倉の剣を考えるとき、私たちは単に「剣豪だった」という言葉だけを見る必要はありません。

実際に戦いの中へ身を置き、傷を負い、それでも生き残った剣士だった。

その事実そのものが、永倉新八が歩んだ剣の道の厳しさを伝えています。

また、永倉の剣は幕末が終わったからといって、その役割を終えたわけではありません。

明治15年(1882年)、43歳となった永倉は、月形潔に請われて北海道の樺戸集治監へ赴き、明治19年(1886年)まで看守たちの剣術師範を務めました。

7歳で剣術を学び始めた少年が、新選組で実戦を経験し、時代が明治へ変わったあとも人に剣を教えていた。

こうして生涯をたどってみると、永倉新八にとって剣とは、新選組時代だけの武器ではなかったことが見えてきます。

少年時代から始まり、幕末の戦いを経て、明治の世まで続いていったもの。

それが、永倉新八の剣でした。

しかし、新選組という組織の中で生きた永倉を知るには、剣の強さだけではまだ足りません。

近藤勇とは、どのように出会い、どのような関係を築いたのか。

土方歳三とは、どのような時間をともにしたのか。

そして壬生浪士組時代、芹沢鴨とはどのような関係にあったのか。

次の章では、剣から少し離れ、近藤勇・土方歳三・芹沢鴨との関係から、永倉新八という男をさらに深く見ていきましょう。

第三章 永倉新八の人間関係

剣士として高い実力を持っていた永倉新八。

しかし、新選組で過ごした時間を見ていくと、剣の強さだけでは見えてこない永倉の姿があります。

近藤勇、土方歳三、そして芹沢鴨。

永倉は彼らと出会い、ともに幕末を生きながら、ときには意見をぶつけ、やがてそれぞれ違う道を歩むことになります。

ここでは、この三人との関係から人間・永倉新八を見ていきましょう。

近藤勇――ともに歩み、二度大きく衝突した男

永倉と近藤勇が知り合ったのは、新選組が結成される前の江戸でした。

第二章で触れたように、永倉は心形刀流・坪内道場で師範代を務めていたころに近藤と知り合い、近藤が道場主を務めていた天然理心流「試衛館」に食客として出入りするようになります。

やがて永倉は近藤や土方歳三らと浪士組に参加して京都へ。

壬生浪士組を経て新選組が成立すると、近藤は局長、永倉は副長助勤や二番隊隊長などを務め、ともに組織の中心で活動することになります。

しかし二人の関係は、永倉が近藤に黙って従い続けるようなものではありませんでした。

永倉が晩年に語った回想によれば、元治元年(1864年)、永倉らは近藤の振る舞いを問題視し、会津藩主・松平容保へ訴え出たとされています。

後世、「近藤勇の非行五箇条」などと呼ばれる一件です。

ただし、この出来事を伝えるうえでは注意も必要です。

現在知られている内容は永倉の回想によるところが大きく、当時提出されたとされる建白書そのものが現在確認されているわけではありません。

それでも、永倉自身が後年この出来事を語り残していることは、二人の関係を考えるうえで非常に興味深いものです。

そして、二人の道が決定的に分かれることになるのが慶応4年(1868年)。

甲州勝沼での敗戦後でした。

永倉の回想では、近藤から「自分の家臣としてなら」という趣旨で従うよう求められたことに永倉が反発。

原田左之助らとともに、近藤・土方のもとを離れたとされています。

ともに戦ってきた仲間であっても、納得できないことには異を唱える。

ここにも、永倉新八という人物の一面が表れているように思います。

しかし、近藤との関係はそこで終わりませんでした。

近藤の死後、永倉は東京・板橋に近藤や土方らを弔う墓碑の建立に尽力します。

さらに明治24年(1891年)には、近藤・土方の二十三回忌を行い、墓碑を修理するための資金を集めようとしていました。

近藤に異を唱えた。
最後には袂を分かった。
それでも、死後までその名を忘れなかった。

近藤勇と永倉新八。

二人の関係は、単純な「仲良し」という言葉だけでは語れないものだったのでしょう。

土方歳三――同じ新選組を背負い、別々の道へ

土方歳三もまた、永倉が試衛館に出入りしていたころから接点を持ち、ともに京都へ向かった人物です。

新選組が成立すると、土方は副長として組織を支え、永倉は二番隊隊長や撃剣師範などを務めました。

近藤との間には永倉自身が後年語り残すほどの衝突がありましたが、土方との関係について同じような形で語ることはできません。

しかし二人もまた、最後まで同じ道を歩んだわけではありませんでした。

甲州勝沼での敗戦後、永倉と原田左之助らは近藤・土方のもとを離れ、靖兵隊(靖共隊)を組織します。

ここで大切なのは、永倉が近藤・土方と別れたからといって、戦うことそのものをやめたわけではないことです。

近藤・土方とは道を分けながらも、永倉自身も旧幕府側として戦い続けました。

一方、土方も戦いを続け、やがて箱館へ。

同じ側で戦いながらも、永倉と土方の進む道は分かれていきました。

そして近藤と同じく、土方も永倉に忘れられた存在ではありませんでした。

明治24年(1891年)の永倉の書簡には、近藤だけではなく、土方の二十三回忌も行おうとしていたことが残されています。

最後まで同じ場所で戦ったわけではない。

それでも、時代が明治へ変わってからも永倉は土方を弔おうとしていた。

ここにも、かつて同じ新選組を背負った者同士のつながりを見ることができます。

芹沢鴨――壬生浪士組時代をともにした、もう一人の剣士

壬生浪士組時代、永倉のすぐ近くには、もう一人の強烈な剣士がいました。

芹沢鴨です。

現在では近藤勇が新選組局長として広く知られていますが、その前身である壬生浪士組の初期には、芹沢も中心人物の一人でした。

そして興味深いことに、永倉が晩年に語り残した『新撰組顛末記』にも、芹沢は登場します。

そこには芹沢の人物像や壬生浪士組時代の出来事、そして芹沢が暗殺されるまでの経緯について、永倉の記憶が残されています。

ただし、『新撰組顛末記』は幕末当時に永倉が書いた日記ではありません。

大正2年(1913年)、晩年の永倉への聞き取りをもとに『小樽新聞』へ連載された回想です。

そのため、細部についてはほかの史料と照らし合わせながら読む必要があります。

それでも、実際に壬生浪士組・新選組を経験した永倉が、半世紀近くを経て芹沢について語り残したこと自体は見逃せません。

文久3年(1863年)、芹沢は暗殺されます。

永倉自身が芹沢暗殺の実行役だったと確認できる史料はなく、二人が特別に親しかった、あるいは激しく対立していたとまで断定することもできません。

ただ、同じ壬生浪士組に身を置き、その時代を実際に知る永倉が、晩年になっても芹沢について語り残した。

そこには、後世の作品だけからでは見えてこない二人の接点があります。

近藤勇とは、ともに歩みながら意見をぶつけ、最後には袂を分かった。

土方歳三とは、同じ新選組を支えながら、最後は別々の道で戦った。

芹沢鴨とは、壬生浪士組が形作られていく時代をともにし、その姿を永倉自身が後世へ語り残した。

こうして三人との関係を追っていくと、永倉新八がただ「新選組二番隊隊長」という肩書だけの人物ではなく、新選組の成立から変化、そして終焉へ向かう時代を、その中心近くで生きた人物だったことが見えてきます。

そして現代。

その永倉新八は、ドラマ『ちるらん』の中で、熱く、豪快で、仲間思いの男として描かれています。

では、その姿は史実に残る永倉新八と、どこまで重なるのでしょうか。

本当に佐伯又三郎とやりあったのか。
そして、あの「ジジイなのにやたら強い」永倉の姿は、本当に史実にも残されているのか。

次の章ではドラマ『ちるらん』と史実を照らし合わせながら、作品の中の永倉新八を読み解いていきましょう。

第四章 ドラマ『ちるらん』から見る永倉新八

ここまで、史料に残された永倉新八の生涯、剣術、そして新選組の仲間たちとの関係を見てきました。

では、その永倉新八が現代の作品になると、どのような人物として描かれるのでしょうか。

ドラマ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』では、若き日の永倉新八を上杉柊平さん、明治時代の永倉新八を柄本明さんが演じています。

実際に私も全話見させていただきましたが、

とにかく『ちるらん』の永倉新八、本当にカッコいいんです!

そして見させていただいて気になったのが、史実の永倉新八と『ちるらん』の永倉新八は、どこまで重なるのか?ということです。

では、3つの場面から見ていきたいと思います。

ドラマ『ちるらん』通りの熱い男だったのか?

『ちるらん』で描かれる永倉新八から強く伝わってくるのが、仲間への思いです。

では、史実の永倉もドラマと同じような「熱い男」だったのでしょうか。

もちろん、永倉が実際にどんな口調で話し、普段どんな表情を見せていたのかまで、現代の私たちに知ることはできません。

しかし、ここまで見てきた永倉自身の行動は残っています。

近藤勇の振る舞いに納得できなければ異を唱える。

最後には近藤・土方と道を分ける。

それでも明治になると、亡くなった近藤や土方らを弔う墓碑の建立に尽力する。

そして晩年には、自らが負った七か所の傷について、成長した孫たちへ見せることを意図して記録を残す。

こうした行動を見ていくと、『ちるらん』で描かれる「自分の信念を持ち、仲間への思いも強い永倉」には、史実の永倉と重なる部分も見えてきます。

もちろん、ドラマの性格描写と史実上の人物を、そのまま同じ人物像として捉えることはできません。

それでも、

「なぜ『ちるらん』では永倉新八をこんな熱い男として描いたのか?」

そう考えながら史実へ戻ってみると、『ちるらん』の永倉新八がまた違って見えてきます。

本当に佐伯又三郎とやりあったのか!?

そして、ドラマで強烈なのが永倉新八と佐伯又三郎の死闘です。

公式の第2話あらすじでは、近藤派の若き隊士・佐々木愛次郎が殺害され、その師である永倉が復讐へ向かいます。

そして永倉は、芹沢派の間者として描かれる佐伯又三郎と一対一で戦い、壮絶な死闘の末に討ち取ります。これはドラマ公式のあらすじでも確認できます。

では――

史実でも永倉新八が佐伯又三郎を斬ったのでしょうか?

今回確認した永倉関係の資料では、ドラマと同じ形で「永倉新八が佐伯又三郎と一対一で死闘を繰り広げ、討ち取った」という出来事は確認できませんでした。

しかし、この第二話のこのシーンでは、永倉新八の男気とカッコよさが存分に描かれていて、私は大好きなシーンでした。

作品では佐伯との戦いを通して、永倉の剣の強さだけでなく、弟子を失った悲しみや怒り、仲間への思いまで描かれています。

史実を知ったうえで改めてこの場面を見る。

そんな楽しみ方ができるのも、歴史作品の面白さなのかもしれません。

「ジジイなのにやたら強い」あの永倉は本当なのか!?

そしてもう一つ。

『ちるらん』を見ていて気になるのが、柄本明さんが演じる明治時代の永倉新八です。

そして何より――

このジジイ、やたら強い。

「さすがにこれはドラマだからじゃないの?」

そう思って史実の永倉を調べてみると、これがまた面白いんです。

晩年の永倉には、小樽で孫と映画を見た帰り道、地元のヤクザ者に絡まれたという逸話が伝わっています。

そこで永倉は刀を抜いて大立ち回り――

をしたわけではありません。

伝えられているのは、相手を睨み据えたという話。

かつて新選組二番隊隊長として幾度もの戦いを経験した老人の眼光を前に、相手は退散したと伝えられています。

斬らない。
戦わない。
ただ睨む。

それで相手が引き下がったというのですから、本当ならとんでもなくカッコいい話です。

ただし、この話は晩年の永倉について伝えられた逸話です。

当時の公文書などによって確認できる戦闘記録と同じ意味で、「確実に起きた史実」と断定することはできません。

では、老いた永倉と剣との関係について、確実に確認できることはないのでしょうか。

実は、あります。

第二章でも触れたように、永倉は43歳だった明治15年(1882年)から明治19年(1886年)まで、北海道の樺戸集治監で看守たちの剣術師範を務めていました。

さらに晩年には、東北帝国大学農科大学、現在の北海道大学の学生にも剣術を指南していました。札幌市にも現在、その来訪地が紹介されています。

7歳で剣術を始めた少年。

幕末、新選組二番隊隊長として戦った剣士。

そして明治になっても、人に剣を教え続けた永倉新八。

こうして生涯を追ってみると、『ちるらん』で描かれる「ジジイなのにやたら強い永倉新八」にも、まったく何もないところから生まれたわけではない、史実上の土台が見えてきます。

もちろん、ドラマの永倉新八と史実の永倉新八は同じではありません。

しかし、ドラマを見て「これ、本当なの?」と気になったところから史実を調べてみると、その先には作品とはまた違った永倉新八の姿がありました。

ドラマから歴史へ。
そして歴史を知って、もう一度ドラマへ。

そんな楽しみ方ができるのも、『ちるらん』という作品の魅力なのではないでしょうか。

そして今回、史実と『ちるらん』の両方から永倉新八という男を追ってきて、私自身にも感じたことがあります。

それは最後に、この記事を書いた一人の歴史好きとして。

第五章「まとめ―永倉新八をブログに書き、思ったこと」で締めくくりたいと思います。

第五章 まとめ―永倉新八をブログに書き、思ったこと

今回、この記事を書くにあたり、改めて永倉新八という人物について詳しく調べてみました。

新選組二番隊隊長として知られ、剣の腕にも優れた永倉新八。

もちろん以前から知っている人物ではありましたが、生い立ちや剣術、人間関係、そして明治以降の人生まで改めて追ってみると、これまでとは少し違った永倉新八の姿が見えてきました。

今回、史実に残された永倉の生涯を一つひとつ追っていく中で、私が最も惹かれたのは、剣の強さだけではありませんでした。

私は改めて調べてみて、史実に残された永倉新八という人物は、数多くいる歴史上の人物の中でも、人格者と呼べる一人だったのではないかと思いました。

ただ、近しい人間に優しいだけではありません。

ともに戦ってきた近藤勇に対しても、納得できないことがあれば異を唱える。

そして最後には、自らの考えを曲げず、袂を分かつ道を選びました。

それでも、亡くなった近藤や土方を忘れたわけではありません。

時代が明治へ変わったあとには、かつての同志たちを弔う墓碑の建立に尽力し、その後も近藤・土方の供養や墓碑の修理をしようとしていました。

近しい人間だから何でも許すのではなく、ときには厳しい一面も見せる。
それでいて、袂を分かった相手への思いまで捨てるわけではない。

誰かに媚びるのではなく、自分の中にある芯をしっかりと持って生きる。

今回改めてその生涯を追ってみて、私が永倉新八に一番惹かれたのは、剣豪としての強さ以上に、そんな人間としての強さだったのかもしれません。

そして今回、もう一つ改めて感じたことがあります。

ドラマ『ちるらん 新撰組鎮魂歌』です。

私も全話見させていただきました。

第四章でも書きましたが、

とにかく『ちるらん』の永倉新八、本当にカッコいいんです!

もちろん、ドラマとして描かれた永倉新八と、史料から見えてくる永倉新八のすべてが同じというわけではありません。

しかし作品を見ながら、「これは史実ではどうだったのだろう?」と改めて調べてみる。

そして史実を知ったあとでもう一度作品を振り返ると、それまでとはまた違った見方ができる。

今回の記事を書きながら、私自身がその面白さを改めて感じました。

また、若き日の永倉新八を演じてくださった上杉柊平さん、明治時代の永倉新八を演じてくださった柄本明さんも、本当に魅力のある俳優さんだと改めて感じました。

上杉柊平さんが演じる、熱く、真っすぐで、男気のある永倉新八。

そして柄本明さんが演じる、長い年月を生き抜いてきた重みを感じさせる永倉新八。

史実の永倉新八を改めて深く知った今だからこそ、もう一度お二人が演じる永倉新八を見てみたいと思います。

ドラマから歴史へ。
そして歴史を知って、もう一度ドラマへ。

歴史上の人物について知るきっかけは、ドラマでも、漫画でも、一枚の写真でもいいのだと思います。

そして、以前から知っている人物であっても、改めて史実を追ってみることで、それまで知らなかった一面や、違った魅力が見えてくることがあります。

永倉新八は以前から好きな歴史上の人物の一人でしたが、今回改めてその生涯を追ったことで、これまで知らなかった一面にも触れることができました。

強いからカッコいいだけではない。
自分の信念を持ち、人とぶつかることがあっても、かつてともに生きた人たちへの思いを忘れない。

今回改めて永倉新八について調べ、記事を書いたことで、私はこの人物がさらに好きになりました。

そしてこの記事が、永倉新八をすでに知っている方にも、これから知る方にも、その魅力を改めて感じてもらえるきっかけになれば、とても嬉しく思います。

資料・参考文献

今回の記事では、史実・後世の回想・ドラマ上の描写を区別するため、以下の資料を中心に確認しました。

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